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トルコ旅行 12 ヒッタイト帝国の都ハットゥシャ-4

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トルコ旅行3日目(10/1 )、ヒッタイト帝国の都「ハットゥシャ(トルコ語でハットゥシャシュ)遺跡」の「ライオン(獅子)門」の次いで「ハットゥシャ遺跡」の南端「スフィンクスの門」に向かいました。



バスが駐車した「スフィンクスの門」の下の風景です。

左の高い斜面に造られた階段を上りきった付近に「スフィンクスの門」、階段の途中には地下道「Yer Kapi(イェル・カプ=大地門・出撃門)」の入口があります。



等高線が記載された「ハットゥシャ遺跡」の地図です。

「スフィンクスの門」と、「地下道」は、「ハットゥシャ遺跡」の一番南にあり、遺跡の見学は、バスで「大神殿」、「ライオン門」と回って来ました。

「ハットゥシャ」の城門は、北東部に1ヶ所離れてありますが、その他の城門は、「大神殿」の西から南に2~300m間隔で3ヶ所あり、南端の「スフィンクスの門」から西の「ライオン門」と、東の「王の門」までが約7~800m間隔で造られていたようです。

北東の城門から「王の門」までの東側の城壁は、険しい渓谷のようで、城門も見当たりません。



階段を上がった地下道「イェル・カプ=大地門・出撃門」の入口付近の風景です。

門の左右の石は、方形に整えられていますが、門の上部は崩れているようです。



地下道「イェル・カプ=大地門・出撃門」の入口付近の案内板にあった説明図です。

上段の図は、側面図で、城壁の外に向かって下り坂のトンネルになっていることが分かります。

下段の図は、北方向を下に描いた平面図です。

城壁と交差するトンネルの西側に「スフィンクスの門」があるようです。

城郭の外側(南)に台形のような地形が見られ、人工的に造られた地形に城門が造られたことが分かります。



写真上段は、地下道入口をのぞいた風景です。

長さ約71mとされる地下道の出口から見えてくる光を頼りに歩いて行きますが、大勢の行列では光が遮られてしまうかも知れません。

写真下段は、地下道の出口に近づいた時の風景です。

トンネルの形状は縦長の三角形で、頭を打つこともなく、しゃが姿勢だと反対方向から来る人と交差できる幅もあるようです。



写真上段は、地下道出口を正面から見た風景で、斜面上には城壁の一部ものぞいて見えます。

左右の石は、入口と同じように方形に整えられており、入口ではこわれていたと思われる上部の石も見られます。

写真下段は、地下道出口を横から見た風景で、トンネルの高さや、城壁に沿った付近の地形も見えています。

出口左は、更に低くなっていますが、谷は余り深くないようです。



地下道出口の案内板に地下道出口付近の復元イメージと思われるイラストがありました。

台形に突き出た地形が造成され、その上に城壁が築かれていたようです。

左に見える地下道の出口は、造成された斜面の下部に造られており、出口から下が元の地形だったものと思われます。



等高線が記載された「ハットゥシャ遺跡」の地図から「スフィンクスの門」周辺部分を切り出し、拡大したものです。

等高線を調べたところ、元の地形と思われるバスが停まった道幅の広い付近や、地下道出口付近の標高が約1220mで、その間に城壁の土台になった地形が造成されたようです。

最高地点の「スフィンクスの門」付近の標高が1236mとみられることから造成された高さは、16m前後に及び、長さは25mを超えるものと思われます。

又、地下道の入口の標高が約1230m、出口が約1220mであることから約71mとされる地下道は、10m程度の標高差で造られたようです。

自然の地形だったと思われる地下道の出口のすぐ南の地点の標高は、更に10m低い1210mで、そこから東西に谷が下って行く稜線だったようです。

広大なヒッタイト帝国の都「ハットゥシャ」を一望できる南端の地点の城壁を考えた時、東西に走る深さ約10mの緩やかな傾斜の谷では防御に弱いと考え、急傾斜の土塁を造成し、その上に城壁や、城門を造ったようです。



地下道出口からの帰り、石垣の斜面を城壁のある高台まで登って行く風景です。(広角でとったので、上までの距離が実際より長く見えています)

高台の上には、「スフィンクスの門」から出て下を見下ろしている人が見えます。



「スフィンクスの門」の前から地下道出口ある斜面を見下ろした風景です。

出口の南の谷の向こうには大きな岩山があり、その向こうには林が広がっていました。



「スフィンクスの門」の前から西側の城壁を見た風景です。

かつては石垣の上に日乾レンガの城壁が続き、所々に外側に突き出た櫓が造られていたようです。



「スフィンクスの門」の数十メートル東の櫓跡の風景です。

内側の城壁の石積みから細長く突き出たスペースがありました。

約3500年の歳月によく残っていたものと思いますが、かつての様子を思い浮かべるには余りに乏しい知識でした。

次回は、「スフィンクスの門」と、「王の門」です。


トルコ旅行 13 ヒッタイト帝国の都ハットゥシャ-5

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トルコ旅行3日目(10/1 )、ヒッタイト帝国の都「ハットゥシャ(トルコ語でハットゥシャシュ)遺跡」の南端「地下道」の次は、その上にある「スフィンクスの門」の見学です。



「ハットゥシャ」の概略地図です。

現地の案内板や、複数の観光案内の地図を参考に自作したもので、かつて城壁に囲まれていたと思われるエリアをピンク色に塗っています。

北の「下市」エリアの大神殿からツアーのバスに乗り、南の「上市」エリアへ地図に記載した矢印の順で回り、「スフィンクスの門」は南端にある門です。



バスが駐車した場所から少し長い階段を上ると「スフィンクスの門」が見えてきました。

スフィンクス像が刻まれた門は、城壁の外側に向いており、これは場内に向いた門の風景です。

城門の内側の向かって右側は、崩れており、左側の柱の一部がかろうじて残っています。

石の柱の下部を見ると、二本の動物の足のような模様が見られ、上部には円の模様が縦に並んでいます。

中央部が破損していますが、動物の顔でもあったのでしょうか。



写真上段は、城門の外側にまわり、「スフィンクスの門」を見た風景です。

写真下段は、スフィンクス像の後側から見た風景で、向かって左のスフィンクス像の上部が大きく破損しているようです。

座ったエジプトのスフィンクスとは違い、翼のある神秘的な姿が印象的でした。



「スフィンクスの門」のそばの案内板にあった「地下道」と、「スフィンクスの門」の平面図です。

左右に延びる太い線が当時の城壁、中央の部屋が「スフィンクスの門」、上側が城外です。

地下道の真上に門が作られ、門の右下(城内側)にも関連施設があったようです。



向かって左側のスフィンクス像です。

顔は人間、体はライオンと思われ、大きな翼も付いています。

スフィンクスと言えば、エジプトの大スフィンクスですが、翼のあるスタイルは意外でした。

大城塞にある宮殿を見下ろす最も高い場所にある重要と思われる門に置れた「スフィンクス像」は、強い力を持つ守り神と考えられていたものと思われます。

西側の「ライオンの門」にある地上最強の獣であるライオンと、東側の「王の門」にある人の姿をした神(優れた知恵?)に加えて、自由に空を駆け巡る翼を付けた「スフィンクス」を強い守り神として期待したのかも知れません。

両耳の下に垂れ下がる帯状のものや、アゴの下に細長く伸びるものなど、古代エジプトの文化的影響が感じられますが、翼のあるスフィンクスは、メソポタミア文明からの影響とも考えられます。

又、最初に見た城壁の内側の門に二本の前足や、頭の上に並ぶ円の模様などがあり、この像と類似しているようです。



向かって右側のスフィンクス像です。

背中に盛り上がっていた部分が崩れ、露出したライオンの胴体後部の様子から考えると、最初にライオン像が作られ、その上に、翼などが接着されたように思われます。

ライオンの門は、石の彫像でしたが、この像は、材料を組み合わせ、接着して作られたように見えます。



「スフィンクスの門」から「ハットゥシャ遺跡」を見下ろした風景です。

ツアーのバスが駐車する遺跡の見学道路の下の斜面にはたくさんの神殿跡が見られ、その先にはヒッタイト帝国の中枢機能があったとされる「大城塞」、その左には「二シャン・テペ」の遺跡が見えています。

最初に見学した「大神殿」付近を探してみましたが、ここからは見えませんでした。



「ハットゥシャ遺跡」の南東部の地図です。

「スフィンクスの門」から遺跡内を見下ろすと、眼下に神殿跡とされるたくさんの建物跡のが見られ、その向こうに「大城塞」などの遺跡が広がっています。



「スフィンクスの門」から見た「大城塞」付近の風景を拡大したもので、向こうの左に盛り上がった大きな岩と、神殿跡が続く手前の斜面との間が「大城塞」です。

ここにヒッタイト帝国の宮殿跡や、粘土板を保管する文書館跡などがあり、1906年、ドイツの古代言語学者フーゴ・ビンクラーが遺跡を発掘し、約1万枚に及ぶ粘土板文書を発見したそうです。

アッカド語(古代メソポタミアの言語で、この地域の国際言語だった)が解読できるビンクラーは、既にエジプトで発見されていた古代エジプトのラムセス2世と、ヒッタイトのハットゥシリ3世が締結した平和条約の粘土板文書と同じ内容の文書を見つけ、ここが「ハットゥシャ」と呼ばれるヒッタイト帝国の都であったことを悟ったようです。

しかし、彼は、初めて見る多くのヒッタイト語の文書の解読は出来ませんでしたが、その後、多くの学者による研究で、BC1680年頃からBC1200年頃までの約480年に及ぶヒッタイトの歴史が解明されるこことなったようです。



左手の岩場の辺りに広がる建物跡「二シャン・テペ」付近を拡大したの風景です。

1862年、フランス人学者ジョルジュ・ペロがここで、古代文字が刻まれた大きな岩を発見し、ひどく風化していたもののその中にヒッタイトの聖地ヤズルカヤで発見された文字(象形文字-ヒエログリフ)と共通していることが分かり、解読がすすんだそうです。

解読された内容は、ヒッタイト帝国最後の王「シュピルリウマ2世」(在位紀元前1218~1200年)の偉業を讃える文書が刻まれているようです。

ヒッタイト帝国は、海の民(謎の民族)によって滅ぼされたとされますが、詳細は分かっていません。

大城塞には激しく燃えた壁がガラス状に溶け、滅亡を伝えているようです。

次回は、南東の城門「王の門」です。

油絵「チューリップ」

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妻の油絵「チューリップ」です。

赤いチューリップ、白い水仙、黄色いバラのカラフルな組み合わせは、どこからともなく楽しそうな音楽が聞こえてくるような気持ちになります。

とは言え、どこか寒い感じが漂っているのは、グレーの背景色や、ガラスの花瓶、メタリックな額縁によるものでしょうか。

特にグレーの背景色は、花の美しさを引き立て、額縁のシルバーにもよく映えており、改めて背景色の影響力の大きさを感じます。

寒い中で、元気に咲く花を見ると、なぜか暖かい気持ちになります。

これも背景色的効果でしょうか。

トルコ旅行 14 ヒッタイト帝国の都ハットゥシャ-6

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トルコ旅行3日目(10/1 )、ヒッタイト帝国の都「ハットゥシャ(トルコ語でハットゥシャシュ)遺跡」の南端「スフィンクスの門」を終え、最後の「王の門」の見学です。



「ハットゥシャ」の概略地図です。

現地の案内板や、複数の観光案内の地図を参考に自作したもので、かつて城壁に囲まれていたと思われるエリアをピンク色に塗っています。

遺跡の見学道路を北の大神殿から南の「スフィンクスの門」まで進み、最後は「王の門」の見学です。

見学を終えた後、遺跡の北にあるレストランに行きましたが、地図の上部にある青い矢印のすぐ上がその場所です。



写真上段は、城内に向いて作られた「王の門」の風景で、左側の白い石柱にレリーフが見られます。

写真下段は、城壁の外側から見た門の風景で、左右の石の形から、かつてスケールの大きいアーチ型の門があったことがうかがわれます。

「王の門」のレリーフは、発掘された当初、王の像と考えられ、門の名称としたようですが、その後の研究で、神の像と考えられるようになっています。

「ライオンの門」や、「スフィンクスの門」など左右に像がある門とは違い、片方だけに神の像が作られたことに興味を魅かれます。

約3500年前の遺跡の中に真新しい白のレリーフは、明らかにレプリカと分かりますが、実物は、アンカラのアナトリア文明博物館にあるそうです。



「王の門」のそばの案内板にあった門の再現イメージ図です。

門の両側の城壁を突き出すことにより、門の前を狭くして押し寄せる敵の人数を制限し、城壁の上からの反撃も考えられていたようです。

一見、中世ヨーロッパの城門にも思えますが、既に3500年前頃、このような城門が造られていたとは驚きです。



トルコ人ガイドさんが「王の門」のレリーフを説明している風景です。

指さされた腰の下辺りの説明内容は、すっかり忘れてしまいましたが、克明に刻まれた神の像にヒッタイト時代が垣間見えるようです。

門に押し寄せる敵を迎え撃つ味方の兵士達を鼓舞する姿のようにも見え、いかめしい顔を門の外に向ける守護神の雰囲気とは違うものです。

体は、正面に向き、顔や、手足は、横を向く姿は、ヒッタイト帝国の聖地「ヤズルカヤ」でも見られ、ヒッタイト帝国時代のレリーフの特徴のようです。

同様の形式は、メソポタミヤ文明や、古代エジプトの彫像の一部にも見られますが、この形式が好んで使われたのは写実を離れ、描きたい面を組み合わせるピカソ的発想だったのでしょうか。



神の像とされるレリーフを拡大した写真です。

トルコ人ガイドさんが指さした腰の下には剣と思われる長い棒状のものが見え、右手に持つ斧もタツノオトシゴの顔にも似た珍しいものです。

先が尖った帽子の後ろに垂れ下がったものが付いますが、耳の下まで覆う形から兜にも見えてきます。

資料を探していたら面白い記述がありました。

■「古代オリエント文明」(ピエール・アミエ著、鵜飼温子訳、白水社発行)より
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~城門のひとつ《王の門》は、力強い写実的肉付きの守護神の像で飾られている。この髯(ヒゲ:頬のひげ)のない人物は、うしろに飾りの帯の垂れた角のついた冠を被り、そしてパレスティナやイラン出土の武器と類似の、刃の反対側が掌の形に分岐した斧を手にしている。帯に結びつけられた曲がった短刀と腰巻は、ラス・シャムラのバール神のものをしのばせる。
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「王の門」と、その付近にあった建物の再現イメージ図(上段)と、平面図(下段)です。

何故かこの図は、「王の門」付近ではなく、「スフィンクスの門」の地下道の入口付近の案内板にあったもので、その場所がこの図で紹介された「王の門」付近一帯が見晴らせる場所だったことによるものでしょうか。

再現イメージ図(上段)を見ると、場外から「王の門」を入り、左手に続く塀に沿って進むと大きな建物の入口があったようです。

中庭がある大きな建物や、その横にある小さな建物は、城門に近いことから旅人の宿泊施設で、小さな建物には馬や、ロバ、ラクダなどを休ませる施設だったのかも知れません。

下に掲載した遺跡南東部の地図で見ると、平面図(下段)は、「王の門」付近と一致していますが、再現イメージ図(上段)は、南北が逆さまに描かれています。



「ハットゥシャ遺跡」の南東部の地図です。

ヒッタイト帝国の都には各地方からの往来があったと考えられ、南東方面に向いた「王の門」にはカッパドキアや、その先の地中海東岸、エジプトとの交流の門だったことが考えられます。

前述の資料に「王の門」に刻まれた守護神の像の短刀や、腰巻が「ラス・シャムラのバール神のものをしのばせる」とあり、「ラス・シャムラ」を調べて見ました。

Wikipediaによると、「ラス・シャムラ」は、地中海東岸にあるシリアの港湾都市「ラタキア」から北に約8Kmの海岸近くの町で、紀元前1450年頃から紀元前1200年頃に栄えた古代都市国家「ウガリット」があった場所だそうです。

「ウガリット」の北にはヒッタイト帝国、南東にはメソポタミア、南西には古代エジプトと、それらを結ぶ三角形の中央に位置し、地中海との交流もあったとされます。

Wikipediaによると、「バール神」は、ウガリット神話に「バアル」の名で登場する神で、「右手に矛、左手に稲妻を握る戦士の姿」、「自然界の水を征する利水・治水の神」、「慈雨によって実りをもたらし、命を養う糧を与える神」などの特徴が紹介されています。

ヒッタイト帝国の聖地「ヤズルカヤ」の大ギャラリー奥の岩に刻まれたレリーフで見た主神「テシュプ」も天候神・雷神とされ、よく似ています。

やはり、半砂漠地帯の気候の中で生きる人々の祈りは、雨の恵みだったものと思われます。

又、「ウガリット」の神話がユダヤ教の聖書へとつながるカナン神話の原型とされていることを知り、驚きました。



写真上段は、「スフィンクスの門」の下の道から「王の門」付近を見た風景で、写真下段は、右手の風景を拡大したものです。

写真右手の道路脇にあるのが「王の門」でしようか。

門から細長く続く石の列が塀の跡のようで、写真右端の建物跡が案内板にあった再現イメージ図の建物と思われます。



ハットゥシャ遺跡の見学を終え、ツアーのバスで、昼食に立ち寄ったレストランの風景です。

冒頭の地図の上にある青い矢印の先にあり、ハットゥシャ遺跡の全体が見渡せました。

写真下段にレストランの入口があり、入口の左手に等高線が描かれたハットゥシャ遺跡の地図が掲示され、その写真をブログで、利用させて頂きました。



レストランの庭にブドウの棚があり、たくさんの房が実っていました

かつて見たことのない小粒のブドウで、未熟とも思える緑色の実に白い粉が付いた珍しいものでした。

写真右下は、ブドウの房のそばにこぶしを並べて撮ったものです。

野生のブドウかと思い、トルコ人ガイトさんに尋ねると、ワインを作る品種だそうです。

こんな小さなブドウで、本当にワインを作るのでしょうか。



写真上段は、レストランから南に見えたハットゥシャ遺跡の風景です。

遺跡は、正面の山すその「大神殿」から左の山頂の「スフィンクの門」まで続いています。

山頂から少し右に見える大きな岩山の上が「大城塞」があると思われますが、こここからは見えないようです。

アナトリアの古い集落は、守りを考え、山裾から見えない山の中腹に作られる例が多く、ハットゥシャの最初の集落も「大城塞」から始まったものと思われます。

写真中段は、大神殿付近の風景です。

右手に再現された城壁(左下隅に拡大写真)、左手の道路わきの木立付近が大神殿の駐車場で、その間に神殿などの建物跡が広がっています。

写真下段は、「スフィンクの門」がある山頂付近の風景で、駐車した車も見えます。



レストランの東に見えたヤズルカヤ遺跡付近の風景です。

山の中腹に三角形の岩山が並ぶ(写真の中央)辺りが「ヤズルカヤ遺跡」で、土産物店の黄色い建物も見えていました。

エジプトのラムセス3世(在位前1182~1151)の葬祭殿の記録によると、紀元前1180年、ヒッタイト帝国は、「海の民」によって滅ぼされたとされます。

ヒッタイト帝国末期、聖地ヤズルカヤで、天候神「テシュプ」へ祈る最後の王を想うと、厳しい干ばつが続く時代だったのかも知れません。

次回は、いよいよカッパドキアです。

トルコ旅行 15 バスから見たエルジェス山の風景

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トルコ旅行3日目(10/1 )、ヒッタイト帝国の都「ハットゥシャ(トルコ語でハットゥシャシュ)遺跡」の門」を終え、カッパドキアの「ギョレメ野外博物館」までバスで約3時間の移動です。



カッパドキアまでの中間地点を過ぎてしばらくすると、左手に、雪をかぶった美しい「エルジェス山」が見えてきました。

地平線の向こうに浮かぶようにそびえる山の美しさに魅かれ、バスの車窓から「エルジェス山」の風景を撮り続けました。

この辺りは畑でしょうか、右手にダンプカーが見え、左手の建物は、穀物の保管、出荷のための施設と思われる黄色いタンクが見られることから農業施設だったのでしょうか。

広大なアナトリア高原の不思議な風景でした。



トルコ共和国の地図です。

トルコ共和国は、ピンク色のエリアで、県境を破線で表示しています。

旅行3日目は、トルコ共和国の首都「アンカラ」を出発、「ハットゥシャ遺跡」を見学してカッパドキアの「ギョレメ野外博物館」へ向かって行きます。



小高い丘の向こうに「エルジェス山」がそびえています。

半砂漠のアナトリア高原の所々で、木が見られるものの、湖川や、低地でない限り緑の少ない荒涼とした風景が続きます。



青や、黄色のビニールシートが掛けられた場所は、収穫物などが保管されているのでしょうか。

後継者の少なくなった日本の農業を考えると、標高1000mを超えるアナトリア高原の厳しい自然の中でも農業が続けられるトルコが頼もしく見えてきます。



所々に集落が見られました。

電信柱が立ち並ぶゴチャゴチャした風景を前にしても「エルジェス山」の気高い美しさは変わりません。



美しい湖が見えてきて「エルジェス山」の風景では一番気に入った写真です。

さすがに湖のそばには、木々が茂っています。



岩山の向こうにそびえる「エルジェス山」の雄大な風景です。

だいぶカッパドキアに近づいて、低地の向こうの山にカッパドキアの岩山の特徴が見られるようになってきました。



カッパドキアの「ギョレメ野外博物館」に近づいてきた辺りの風景です。

カッパドキア独特の岩山が見えてきました。

この独特の地形は、六千万年前、「エルジェス山」(標高3917m)や、西の「ハッサン山」(標高3268m)の噴火により岩石地帯が形成され、その後の風雪、雨水による浸食で出来たとされます。

この辺りまで来ると「エルジェス山」は見えなくなりましたが、ここまでの道中、素晴らしい雪山の風景を堪能することが出来ました。


油絵「西洋人形」

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妻の油絵「西洋人形」です。

この絵を見ていると、子供の頃、赤いフリルの帽子をかぶった布の人形が女の子の遊び相手になっていたのを思い出しました。

「西洋人形」と言えば、19世紀のフランスや、ドイツで作られた美しさの極地とも言える「ビスク・ドール」が浮かびますが、この人形は、庶民的なものです。

石器時代の石偶や、土偶に始まり、木彫りや、布など様々な素材、技術の変遷を経て現代に続いてきた人形ですが、人形に親しみを感じ、心を通わす疑似体験は、心を和ませ、人を成長させてくれていたものと思われます。

素敵な「ビスク・ドール」や、高級な「雛人形」は、今でも庶民には高嶺の花ですが、展示館や、本などで見るだけならお安いことです。

ひな祭りまでもうすぐ。雛人形の展示会に出かけ、人形と心を通わせてみたくなりました。

トルコ旅行 9 ヒッタイト帝国の都「ハットゥシャ」-1

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トルコ旅行3日目(10/1 )、ヒッタイト帝国の聖地「ヤズルカヤ遺跡」の次は、帝国の都「ハットゥシャ(トルコ語でハットゥシャシュ)遺跡」の見学です。

ヒッタイトの歴史は、古代メソポタミアから伝わった楔形文字を記した粘土板の発見から解り始めたようです。

この地に文字を伝えたのはメソポタミア北部のアッシリア商人によるもので、ヒッタイト時代以前の紀元前1950〜1750年頃、金・銀・銅などの入手を目的にやってくるようになり、各地に植民商館を造って活動拠点としていたようです。

植民商館のひとつ「カネシュ(現キュルテペ)」1925年から「カッパドキア文書」と呼ばれる大量の粘土板(アッシリア商人の商取引記録)が発掘され、ヒッタイト以前の時代が歴史時代となったようです。

ヒッタイト王国の歴史は、ここハットゥシャ遺跡の「大城塞」にあった王室文書館から1万枚に及ぶ粘土板が発見されたことで解明が始まったようです。

ハットウシャの中核施設と思われる「大城塞」の見学は、残念ながら見学は出来ませんでした。



ヒッタイト帝国時代のオリエントの地図で、「ハットウシャ」は赤丸印の場所です。

「世界歴史の旅 トルコ」(大村幸弘著 山川出版社)に掲載されていた地図「ヒッタイト帝国時代のオリエント」を参考に現代の国境(破線)の描かれた白地図をベースに自作したものです。

「ハットゥシャ」は、ヒッタイト古王国が建国された紀元前1680頃からヒッタイト帝国終焉した紀元前1200年まで約480年間続いた都の地で、ヒッタイト帝国の最盛期の領土は、現代のトルコ共和国からシリアにまたがっていたようです。

特に「ヒッタイト帝国主要部」は、大きく湾曲したクズルウルマック川(赤い川)に囲まれたエリアで、帝国が拡大する過程に川を防衛や、国境として利用していたなごりかもしれません。



「ハットゥシャ」の概略地図です。

現地の案内板や、複数の観光案内の地図を参考に自作したもので、東西を谷で挟まれた地形に造られた城壁に囲まれたエリアをピンク色に塗っています。

又、大神殿や、大城塞のある「下市」と表示した北のエリアは、建国頃からの市街地で、南のエリアは「上市」は、紀元前14世紀に外敵に備えて拡張されたとされます。

ヒッタイトの歴史は、紀元前1680年頃建国された古王国時代、紀元前1430年頃再建された新王国(帝国)時代に分けられ、その間の紀元前1500年頃から70年間を中王国時代とされているようです。

ハットゥシャは、中王国がミタン二(オリエント地図参照)の侵攻により崩壊したとされ、現在の遺跡の大部分は、新王国(帝国)時代に造られた施設と思われます。

周囲6Kmにおよぶ城壁跡は、紀元前の規模としては最大級と思われ、当時の繁栄ぶりがうかがえます。

見学は、大神殿、ライオン門、スフィンクス門、王の門と左回りで進んで行きました。



上段は、「大神殿」の復元イメージ図、下段は、その平面図で、遺跡の案内板に展示されていたものです。

この神殿は、天候神「テシュプ」と、配偶神「へパト」に捧げられたものだそうで、日乾レンガの巨大な建物(短辺130×長辺165)があったようです。

神殿の北西には復元された城壁があり、神殿との間に倉庫群の基礎石が並んでいました。

■古代アナトリアの遺産(立田洋司著、近藤出版社)より
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たった一人の守衛が見守る入口から少し行くと、右手にまず大神殿跡が見える。この大神殿跡はまことに大きな遺構である。まず中庭状の大神域があり、その周りを40以上の部屋が囲み、さらに少しの間隔をおいて外側を80余りの細長い部屋がとり巻いている。どうやらこれらの部屋は、さまざまな物資を貯蔵するのに使用されたらしい。現在は土台の石灰石しか残っていないが、当時はこの上に粘土を乾燥させたいわゆる日乾レンガ【この地は夏の太陽光線が強いので、これでもかなりの強度を持った建材となり得る】で厚い壁が造られ、さらにその上には木で支えられながら同じ日乾レンガ製の屋根が載っていた。この大神殿、長さを測れば、短辺で130メートル、長辺で165メートルもあるという。
大神殿跡のすぐ南側には、ごく近年の発掘(1967~1968年)で地上にその姿をあらわした古代の道路(幅8メートル)があり、さらにその向うには、貯蔵用や住居用と目される大きな建物の跡がある。
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上段は、大神殿の駐車場近くにあった石の遺物で、下段は、案内板にあったその復元イメージ図と思われるものです。

案内板の撮影で、ガイドさんの説明を聞きもらし、何か分かりませんが、前後4頭のライオンが守るデザインから王の棺桶にも思えます。



写真上段は、大神殿の門にガイドさんが立つ風景です。

建物の復元イメージ図にあるようにここから建物に入って行ったようです。

ガイドさんの足元に遺跡調査の人が置いた測量器具のようなものが見られ、付近では今も発掘調査が続けられている風景が見られました。

写真下段は、石段を上がった門の地面の風景です。

ガイドさんの話では、ここには二つの秘密の井戸(赤い矢印の場所)があったそうで、昼間の開門時間帯は、石で蓋をされ、夜間の閉門時間帯には蓋が外され、外部からの侵入を防ぐ落とし穴としていたようです。



門から神殿内を進み、振り返った風景です。

通路には石が敷かれていますが、盛り上がっていびつになっている部分は地震などの影響でしょうか。

向こうに門や、駐車場が見えますが、遺跡内はバスで移動して行きます。



門を直進した辺りにあった石で、ガイドさんが建物の基礎石に開けられた穴の説明をしている場面です。

ガイドさんの分かりづらい日本語を私なりに解釈すると、いち早く鉄器を利用していたヒッタイトは、鉄の棒と、石に開けた穴を門の開閉に利用していた意味の説明でした。(この石が何に利用されていたのは理解できていませんが・・・)

付近に散らばっていた建物の基礎と思われる四角柱の石にも等間隔で同様の穴が見られ、基礎の石をつなぎ合わせていた可能性も考えられます。



穴の開いた石の少し南につやのある緑色の石がありました。

冗談なのか、ガイドさんから「宇宙から落ちた石」で、石に手を置き、石を左回りすると願い事がかなうと紹介されていました。

座るのにちょうど良い高さだったように記憶していますが、上部が平らで、神殿にあったことから祭礼などで使われていたものかもしれません。

廃墟のように殺風景な遺跡の中で、美しく磨かれた緑の石には不思議な存在感がありました。



穴の開いた石の近くに、ガイドさんからヒッタイトの王が入った風呂と紹介された水槽のようなものがありました。

深さは確か1.5メートル位で、お湯を沸かして入れるには、大き過ぎるようにも思われます。

「世界の歴史2 古代のオリエント」(小川英雄著、講談社)によると、様々な民族を統治していたヒッタイトは、それぞれの伝統宗教を許容し、自分達の信仰に受け入れて多くの神を信仰していたとされます。

そして、メソポタミアの影響もあり、神を人のように考える擬人神観を持ち、神々は、住居である神殿で、食事、入浴、娯楽の供養まで受けていたとされます。

この風呂も神様が入浴するためのもので、井戸から水を汲み、神様の体を洗う儀式をしていたのかも知れません。

大神殿の外観の再現イメージ図をながめ、更に建物内部の様子や、当時行われていた様々な儀式を私が想像するには余りに情報が足りないようです。

中庭のある神殿、倉庫群、再現された城壁などは、次回とさせて頂きます。

油絵「シクラメン」

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昨年、母が亡くなり、新年のご挨拶は控えさせて頂きます。



妻の油絵「シクラメン」です。

なぜか写真がうまく撮れなく、背景色が濁り、鉢が赤っぽくなってしまいました。

毎年のように描くシクラメンですが、割と気に入った作品になったそうです。

シクラメンと言えば、一昨年の暮れに買った花が夏前まで咲き続け、夏休みの後、秋口に花が復活して2~3週間咲き続けたのを思い出します。

少し大きな株で、水を切らさないよう気を付けただけでしたが、長く咲く続ける花に感心したものです。

花が好きだった母に花を買うため、よく売り場を見て歩いていましたが、今年はシクラメンを買わずじまいでした。

お正月は、この絵を飾り、昨年同様、長くながめていたいと思います。

トルコ旅行 10 ヒッタイト帝国の都ハットゥシャ-2

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トルコ旅行3日目(10/1 )、ヒッタイト帝国の都「ハットゥシャ(トルコ語でハットゥシャシュ)遺跡」の大神殿の続きです。



「ハットゥシャ遺跡」の北端にある大神殿周辺の地図です。

前回は、門や、門を入った付近の紹介でしたが、今回は、神殿や、復元された城壁、倉庫群などの紹介です。



門から奥に進むと、右手に神殿の入口があります。

胸の高さまである大きな基礎石を見ると、かつての神殿が驚くほどのスケールだったことがうかがわれます。

入口を入ると、中庭が広がり、そのはるか先にはなだらかな丘の斜面が見えます。

木々もまばらなこの辺りは、標高1000mを超え、右手の岩山の陰(北東方向)には標高約1200mの聖地、ヤズルカヤがあります。



案内板にあった神殿の復元イメージ図と、平面図です。

神殿の復元イメージ図を見ると、日乾レンガで造られたとされる神殿は、石材を多用したエジプトや、ギリシア建築とは趣を異にしており、やはりメソポタミア建築の影響を強く受けたものと思われます。

この神殿には天候神「テシュプ」、配偶神「へパト」が祀られていたとされ、聖地「ヤズルカヤ遺跡」の大ギャラリーの一番奥のレリーフにも左の列の先頭に男神を従えた「テシュプ神」、右の列の先頭に女神を従えた「へパト神」が向き合った姿で描かれており、この神殿奥にも同様の考え方で祀られていたのかも知れません。

神殿奥の左右の二部屋(C・D)が二神を祀っていた場所とも思われ、神殿入口(平面図A)から広い中庭(平面図B)に入り、奥に祀られた二神への祈りの儀式が行われていたのかも知れません。



写真上段は、神殿入口から右手(東側)を見た風景です。

神殿の基礎石は、大きな岩を隙間のないよう丁寧に加工してつないでおり、周囲の建物とは際立った違いが感じられます。

幅が1mを超え、高さが胸まである基礎石の上に載せられた日乾レンガの壁は、かなり重厚なものだったと思われ、それだけでも神殿の壮大さがうかがわれます。

横幅130m、奥行き165mの巨大な大神殿が約3500年前、ここに建っていたことを想えば、古代エジプトと、覇を競ったヒッタイトの偉大な歴史に興味が深まってきます。

写真下段に遺跡研究員と思われる二人の若い女性が基礎石を調べていると思われる姿が見られますが、門の付近などにも4~5人が見られ、今でも詳細な研究が続けられているようです。



写真上段は、神殿奥の部屋(平面図D)の風景です。

中庭とは違い、床に石が敷き詰められています。

正面の左右の方形に整えられた基礎石と違い、中央の基礎石は、自然の岩の形を残し、部屋に突き出ており、祭壇だったのかもしれません。

「古代アナトリアの遺産」(立田洋司著、近藤出版社)によると、このアナトリアのコンヤ平原にある新石器時代の遺跡チャタル・ヒュユク(BC 6500頃~)では既に建物の内装に漆喰(しっくい)が使われており、クリーム色の漆喰で、床や壁を幾層にも塗って補修していたとされます。

この建物の床や、壁、天井も漆喰で白く塗られ、神聖さを演出していたのかも知れません。

写真下段は、神殿奥の辺りの部屋の仕切りと思われる基礎石の風景で、石の上に等間隔で小さな穴が開けられていました。

チャタル・ヒュユク遺跡の建物の壁や、屋根は、木材を骨格にして日乾レンガを積んだとされ、いち早く鉄器を使っていたヒッタイト帝国の神殿と考えると、この穴には金属棒(青銅、又は鉄)が差し込まれ、石材や、木材などを固定していたのかも知れません。



神殿西の奥(平面図Cの付近)から入口(南西)方向を見た風景です。

左手に神殿の中庭を隔てる基礎石、右手には神殿を囲む小部屋の基礎石が続き、正面に細く延びる場所は、廊下のような場所だったのでしょうか。

向こうの丘の麓の斜面を見ると、多くの建物跡が広がっています。



神殿入口を西に進んだ辺りの案内板の前にトルコ人ガイド、ギョクハンさんが立ち、その右(北西方向)に復元された城壁を望む風景が広がっています。

冒頭の大神殿の地図にもあるように城壁と神殿の間には倉庫とされるたくさんの建物跡が広がっています。



写真上段は、一段低くなった場所に倉庫群が広がり、城壁の背後にボアズカレ村が広がる風景です。

写真中段は、復元された城壁の全景で、写真下段は、案内板にあった復元城壁の平面図です。

城壁の平面図で、櫓が図の下に突き出た側が城壁の外側で、左の櫓の壁の白い部分は、入口と思われます。

ガイドさんの説明によるとこの城壁はJT(日本たばこ産業)の支援で復元されたそうで、JTのWebサイトを調べてもそのいきさつは見つかりませんでした。



写真上段は、案内板にあったハットゥシャで発掘されたとされる城塞形土製品の写真です。

城壁の復元は、この土製品を参考に行われたようです。

写真下段は、復元された城壁の左右の櫓部分を拡大したもので、土製品と比べてみると復元の参考としたことがうかがわれます。

右の櫓の下には入口があり、左右の櫓の右側(二階部分)には階段が見られることから一階と、二階を結ぶ階段があったようです。

左に傾斜が高くなる地形の高低差は、櫓の左右で城壁の高さを変えて造られており、階段が右だけに必要だったようです。

城壁の下の基礎石を見ると、比較的小さな石を積み重ねた石垣で、その上に日乾レンガの壁が造られているようです。

前回の記事の冒頭で掲載したオリエントの地図にヒッタイト帝国の主要部を囲むクズルウルマック川(赤い川)が見られますが、日乾レンガは、この川辺に沈殿した土が使われているようで、壁の色もその土の色が反映されたものかも知れません。

櫓の壁に丸く突き出たものが見られますが、一階の天井や、二階屋根を支える木材が壁から突き出ているものと思われます。

又、右の櫓の入口の左上には木材が見られないのは、おそらく二階に登る階段があることによるものと思われ、左の櫓にも同じ様な部分が見られます。

しかし、写真上段の土製品には一階天井を支える丸太は見られず、やはり約3500年の隔たりを埋める資料としては限界があったのかも知れません。

二つの谷に挟まれた尾根の斜面にこのような城壁が6Kmにも及んでいることを考えると、当時の高い建築技術や、建設にかけられた労力の膨大さが伝わってきます。



写真上段は、復元された城壁の右手(北方向)を見た風景です。

左右の赤い矢印の場所に大きな甕が埋められた場所がありました。

ガイドさんの説明では穀物(小麦?)などが貯蔵されていた甕だそうで、この一帯の建物には様々な物資が保管されていたものと思われます。

写真中段は、左手の5個の甕が見える場所で、遺跡の保護のためかフェンスで囲まれています。

写真下段は、右手の4個の甕が見える場所で、バスで走った道の近くでした。

これらの甕の縁には保管した物がヒエログリフ(象形文字)で刻まれていたとされ、それぞれの物資の必要量を保存する管理が行われていたことがうかがわれます。

直径が1mを超えると推察される大きな甕を作る焼き物の技術や、基礎石が甕の直径より幅広く造られた理由など写真を見ていくと興味が尽きません。



上段の4個の甕が見える場所の向こうで、建物を発掘していると思われる風景が見られました。

冒頭の大神殿周辺の地図に「建物A」と記した場所で、この地図に描かれているものの本格的な発掘はこれからだったのでしょうか。



写真上段は、大神殿の駐車場から道の向こうに見えた建物跡で、なだらかな斜面に基礎石が見られました。

写真中段は、建物跡をそばで見た風景で、倉庫でも見られた基礎石の幅の広さが印象的です。

標高1000mを超える土地で、冬の厳寒や、夏の猛暑に対応したたてものだったのでしようか。

写真下段は、案内板にあった建物の復元イメージ図で、石垣の基礎の上に建てられた平屋根の二階建ては、現代の建物と変わらないモダンさに驚きます。

現代の鉄筋コンクリートの建築は、石の基礎の上に木材を骨格とした日乾レンガの建築技術がベースになっているのかも知れません。

次回は、ハットゥシャ遺跡の南のエリアにある城門です。

トルコ旅行 11 ヒッタイト帝国の都ハットゥシャ-3

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トルコ旅行3日目(10/1 )、ヒッタイト帝国の都「ハットゥシャ(トルコ語でハットゥシャシュ)遺跡」の大神殿の見学を終え、ライオン(獅子)門へ向かいました。


「ハットゥシャ」の概略地図です。

現地の案内板や、複数の観光案内の地図を参考に自作したもので、かつて城壁に囲まれていたと思われるエリアをピンク色に塗っています。

北の「下市」エリアの大神殿からツアーのバスに乗り、南の「上市」エリアへ地図に記載した矢印の順で回ります。



前回紹介した「ハットゥシャ」の大神殿を見下ろした風景です。

「ハットゥシャ遺跡」の見学を終えて、カッパドキアへ移動する山道から見えた風景で、写真右に見える白い塔の手前に復元された城壁が見え、写真左端の木立の辺りに大神殿の駐車場があります。

南の「上市」エリアへは、大神殿の駐車場から左手に進んで行きます。



上の写真の左に続く「ハットゥシャ遺跡」の風景です。

写真右端の赤い矢印の場所が大神殿の駐車場で、左の矢印の少し先にはライオン(獅子)門があります。

冒頭に掲載した遺跡の概略地図にある大城塞や、南城塞など、遺跡の東側は、岩山の陰で見えていませんが、左の矢印まで長い上り坂が続いている様子が分かります。



等高線が記載された「ハットゥシャ遺跡」の地図です。

遺跡の見学を終え、遺跡の北にあるレストランでの食事の時、店先に掲示されていた案内地図を撮ったものです。

北の大神殿付近の標高が1000m、南端の「スフィンクス門」付近が1237mと、ヒッタイト帝国の都は標高差237mにも及んでいたようです。

遺跡地図の道路に標高差50m毎のポイントを記していますが、次の見学スポット「ライオン門」から「スフィンクス門」までの傾斜が大きいことが分かります。



写真上段は、「ライオン門」へ向かう途中、上の地図の★印の場所を、南側から見下ろした風景で、写真下段は、写真右上部分を拡大したものです。

斜面に続く石積みは、大神殿から南東の大城塞を囲んでいた城壁と思われ、南の「上市」が拡張される以前のものと思われます。

道路から城壁前までの間は、急斜面になっており、城壁から迫る敵に安定した足場を与えないよう考慮されたものと思われます。

道路脇に駐車し、城壁まで歩いて見物する人が見られますが、ゆっくりと自由に見学できるのはうらやましい限りです。



写真上段は、「ライオン(獅子)門」を城壁の内側から見た風景で、写真下段は、ライオン像のある外側から見た風景です。

門の両脇に刻まれたライオン像にはタテガミが見られず、雌ライオンと思われますが、吠えるように口を開けた巨体には迫力がありました。



そばの案内板にあった「ライオン(獅子)門」の写真です。

上段は、現在の風景、下段はヒッタイト帝国時代の姿に復元されたものと思われます。

かつての門は、かなり高い石積みとなっており、ライオン像が刻まれた石柱も左右がアーチでつながっていたようです。

又、石積みの上には大神殿の北側に復元された城壁と同様、日乾レンガの建物がそびえていたと思われ、堂々たる姿が思い浮かびます。

入口の縦長のアーチは、古代ローマ遺跡などで見られる半円形のアーチ型とは違う独特のデザインで、アーチ構造の発展過程の形式だったのかも知れません。



左右のライオン像の画像を合わせたものです。

向かって左の像は、風化が激しく、最近レプリカに代えられたようで、かつての姿がよく復元されたものと思われます。

向かって右は、紀元前13世紀に上市が拡張された当時からのものと思われ、顔や足に破損が見られます。

ヒッタイト時代以前からアナトリアに大きな影響を及ぼしたメソポタミア北部のアッシリアでもライオンは、女神など様々な神の属獣とされ、門を守るライオン像は、やがてインド、中国、朝鮮半島を経由して日本にも伝わり、狛犬となったと思われます。

かつてアフリカからインドに及ぶエリアに生息したとされるライオンですが、有名な古代アッシリアのライオン狩りのレリーフ(大英博物館 )にもあるように当時は危険を冒してでも狩る必要がある恐ろしい猛獣だったようです。

しかし、百獣の王である雄ライオンの姿ではなく、雌のライオン像としたことが気になります。

2014年12月08日、このブログに掲載のヤズルカヤ遺跡のレリーフにも主神「テシュプ」と向き合う女神(配偶神)「へパト(アリンナ)」がパンサーの上に立って属獣としている姿が見られ、ライオンを雌としたことに関連があるのでしょうか。



向かって左のライオン像の上半身の拡大写真です。

キバがなく、長い舌を出した表情は、門の前に来る敵を威嚇するための表現とも思えず、顔の輪郭や、耳などに抽象化されたデザインが見られるのは門の守護神としての表現形式があったのでしょうか。

「世界歴史の旅トルコ」(大村幸弘著、山川出版社)によると、「左手の破損している獅子(レプリカに取り替えられる前の像)の頭部左上にはヒエログリフ(象形文字)が刻まれており,光線の具合によって読み取ることができる。」とあり写真を拡大して見ましたがよくわかりませんでした。

Webサイトwikipediaのハットゥシャのページにレプリカに代えられる前の顔が破損したライオンの門の写真が掲載されていましたが、やはり復元されたこの像が見ごたえがあります。



向かって右のライオン像の上半身の拡大写真です。



これは上市が建設された当初からの石像と思われ、三千年を超える歳月によく残ったことや、この像から左の像をよく復元したことに感心します。

明治時代以前の神社の狛犬がひどく風化している姿を見るにつけ、当時の石材の選定にしっかりしたノウハウがあったことがうかがえます。

トルコ旅行 12 ヒッタイト帝国の都ハットゥシャ-4

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トルコ旅行3日目(10/1 )、ヒッタイト帝国の都「ハットゥシャ(トルコ語でハットゥシャシュ)遺跡」の「ライオン(獅子)門」の次いで遺跡の南端にある「スフィンクスの門」に向かいました。



バスが駐車した「スフィンクスの門」の下の風景です。

左の高い斜面に造られた階段を上りきった付近に「スフィンクスの門」、階段の途中には地下道「Yer Kapi(イェル・カプ=大地門・出撃門)」の入口があります。



等高線が記載された「ハットゥシャ遺跡」の地図です。

「スフィンクスの門」と、「地下道」は、「ハットゥシャ遺跡」の一番南にあり、遺跡の見学は、バスで「大神殿」、「ライオン門」と回って来ました。

「ハットゥシャ」の城門は、北東部に1ヶ所離れてありますが、その他の城門は、「大神殿」の西から南に2~300m間隔で3ヶ所あり、南端の「スフィンクスの門」から西の「ライオン門」と、東の「王の門」までが約7~800m間隔で造られていたようです。

北東の城門から「王の門」までの東側の城壁は、険しい渓谷のようで、城門も見当たりません。



階段を上がった地下道「イェル・カプ=大地門・出撃門」の入口付近の風景です。

門の左右の石は、方形に整えられていますが、門の上部は崩れているようです。



地下道「イェル・カプ=大地門・出撃門」の入口付近の案内板にあった説明図です。

上段の図は、側面図で、城壁の外に向かって下り坂のトンネルになっていることが分かります。

下段の図は、北方向を下に描いた平面図です。

城壁と交差するトンネルの西側に「スフィンクスの門」があるようです。

城郭の外側(南)に台形のような地形が見られ、人工的に造られた地形に城門が造られたことが分かります。



写真上段は、地下道入口をのぞいた風景です。

長さ約71mとされる地下道の出口から見えてくる光を頼りに歩いて行きますが、大勢の行列では光が遮られてしまうかも知れません。

写真下段は、地下道の出口に近づいた時の風景です。

トンネルの形状は縦長の三角形で、頭を打つこともなく、しゃが姿勢だと反対方向から来る人と交差できる幅もあるようです。



写真上段は、地下道出口を正面から見た風景で、斜面上には城壁の一部ものぞいて見えます。

左右の石は、入口と同じように方形に整えられており、入口ではこわれていたと思われる上部の石も見られます。

写真下段は、地下道出口を横から見た風景で、トンネルの高さや、城壁に沿った付近の地形も見えています。

出口左は、更に低くなっていますが、谷は余り深くないようです。



地下道出口の案内板に地下道出口付近の復元イメージと思われるイラストがありました。

台形に突き出た地形が造成され、その上に城壁が築かれていたようです。

左に見える地下道の出口は、造成された斜面の下部に造られており、出口から下が元の地形だったものと思われます。



等高線が記載された「ハットゥシャ遺跡」の地図から「スフィンクスの門」周辺部分を切り出し、拡大したものです。

等高線を調べたところ、元の地形と思われるバスが停まった道幅の広い付近や、地下道出口付近の標高が約1220mで、その間に城壁の土台になった地形が造成されたようです。

最高地点の「スフィンクスの門」付近の標高が1236mとみられることから造成された高さは、16m前後に及び、長さは25mを超えるものと思われます。

又、地下道の入口の標高が約1230m、出口が約1220mであることから約71mとされる地下道は、10m程度の標高差で造られたようです。

自然の地形だったと思われる地下道の出口のすぐ南の地点の標高は、更に10m低い1210mで、そこから東西に谷が下って行く稜線だったようです。

広大なヒッタイト帝国の都「ハットゥシャ」を一望できる南端の地点の城壁を考えた時、東西に走る深さ約10mの緩やかな傾斜の谷では防御に弱いと考え、急傾斜の土塁を造成し、その上に城壁や、城門を造ったようです。



地下道出口からの帰り、石垣の斜面を城壁のある高台まで登って行く風景です。(広角でとったので、上までの距離が実際より長く見えています)

高台の上には、「スフィンクスの門」から出て下を見下ろしている人が見えます。



「スフィンクスの門」の前から地下道出口ある斜面を見下ろした風景です。

出口の南の谷の向こうには大きな岩山があり、その向こうには林が広がっていました。



「スフィンクスの門」の前から西側の城壁を見た風景です。

かつては石垣の上に日乾レンガの城壁が続き、所々に外側に突き出た櫓が造られていたようです。



「スフィンクスの門」の数十メートル東の櫓跡の風景です。

内側の城壁の石積みから細長く突き出たスペースがありました。

約3500年の歳月によく残っていたものと思いますが、かつての様子を思い浮かべるには余りに乏しい知識でした。

次回は、「スフィンクスの門」と、「王の門」です。

トルコ旅行 13 ヒッタイト帝国の都ハットゥシャ-5

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トルコ旅行3日目(10/1 )、ヒッタイト帝国の都「ハットゥシャ(トルコ語でハットゥシャシュ)遺跡」の南端「地下道」の次は、その上にある「スフィンクスの門」の見学です。



「ハットゥシャ」の概略地図です。

現地の案内板や、複数の観光案内の地図を参考に自作したもので、かつて城壁に囲まれていたと思われるエリアをピンク色に塗っています。

北の「下市」エリアの大神殿からツアーのバスに乗り、南の「上市」エリアへ地図に記載した矢印の順で回り、「スフィンクスの門」は南端にある門です。



バスが駐車した場所から少し長い階段を上ると「スフィンクスの門」が見えてきました。

スフィンクス像が刻まれた門は、城壁の外側に向いており、これは場内に向いた門の風景です。

城門の内側の向かって右側は、崩れており、左側の柱の一部がかろうじて残っています。

石の柱の下部を見ると、二本の動物の足のような模様が見られ、上部には円の模様が縦に並んでいます。

中央部が破損していますが、動物の顔でもあったのでしょうか。



写真上段は、城門の外側にまわり、「スフィンクスの門」を見た風景です。

写真下段は、スフィンクス像の後側から見た風景で、向かって左のスフィンクス像の上部が大きく破損しているようです。

座ったエジプトのスフィンクスとは違い、翼のある神秘的な姿が印象的でした。



「スフィンクスの門」のそばの案内板にあった「地下道」と、「スフィンクスの門」の平面図です。

左右に延びる太い線が当時の城壁、中央の部屋が「スフィンクスの門」、上側が城外です。

地下道の真上に門が作られ、門の右下(城内側)にも関連施設があったようです。



向かって左側のスフィンクス像です。

顔は人間、体はライオンと思われ、大きな翼も付いています。

スフィンクスと言えば、エジプトの大スフィンクスですが、翼のあるスタイルは意外でした。

大城塞にある宮殿を見下ろす最も高い場所にある重要と思われる門に置れた「スフィンクス像」は、強い力を持つ守り神と考えられていたものと思われます。

西側の「ライオンの門」にある地上最強の獣であるライオンと、東側の「王の門」にある人の姿をした神(優れた知恵?)に加えて、自由に空を駆け巡る翼を付けた「スフィンクス」を強い守り神として期待したのかも知れません。

両耳の下に垂れ下がる帯状のものや、アゴの下に細長く伸びるものなど、古代エジプトの文化的影響が感じられますが、翼のあるスフィンクスは、メソポタミア文明からの影響とも考えられます。

又、最初に見た城壁の内側の門に二本の前足や、頭の上に並ぶ円の模様などがあり、この像と類似しているようです。



向かって右側のスフィンクス像です。

背中に盛り上がっていた部分が崩れ、露出したライオンの胴体後部の様子から考えると、最初にライオン像が作られ、その上に、翼などが接着されたように思われます。

ライオンの門は、石の彫像でしたが、この像は、材料を組み合わせ、接着して作られたように見えます。



「スフィンクスの門」から「ハットゥシャ遺跡」を見下ろした風景です。

ツアーのバスが駐車する遺跡の見学道路の下の斜面にはたくさんの神殿跡が見られ、その先にはヒッタイト帝国の中枢機能があったとされる「大城塞」、その左には「二シャン・テペ」の遺跡が見えています。

最初に見学した「大神殿」付近を探してみましたが、ここからは見えませんでした。



「ハットゥシャ遺跡」の南東部の地図です。

「スフィンクスの門」から遺跡内を見下ろすと、眼下に神殿跡とされるたくさんの建物跡のが見られ、その向こうに「大城塞」などの遺跡が広がっています。



「スフィンクスの門」から見た「大城塞」付近の風景を拡大したもので、向こうの左に盛り上がった大きな岩と、神殿跡が続く手前の斜面との間が「大城塞」です。

ここにヒッタイト帝国の宮殿跡や、粘土板を保管する文書館跡などがあり、1906年、ドイツの古代言語学者フーゴ・ビンクラーが遺跡を発掘し、約1万枚に及ぶ粘土板文書を発見したそうです。

アッカド語(古代メソポタミアの言語で、この地域の国際言語だった)が解読できるビンクラーは、既にエジプトで発見されていた古代エジプトのラムセス2世と、ヒッタイトのハットゥシリ3世が締結した平和条約の粘土板文書と同じ内容の文書を見つけ、ここが「ハットゥシャ」と呼ばれるヒッタイト帝国の都であったことを悟ったようです。

しかし、彼は、初めて見る多くのヒッタイト語の文書の解読は出来ませんでしたが、その後、多くの学者による研究で、BC1680年頃からBC1200年頃までの約480年に及ぶヒッタイトの歴史が解明されるこことなったようです。



左手の岩場の辺りに広がる建物跡「二シャン・テペ」付近を拡大したの風景です。

1862年、フランス人学者ジョルジュ・ペロがここで、古代文字が刻まれた大きな岩を発見し、ひどく風化していたもののその中にヒッタイトの聖地ヤズルカヤで発見された文字(象形文字-ヒエログリフ)と共通していることが分かり、解読がすすんだそうです。

解読された内容は、ヒッタイト帝国最後の王「シュピルリウマ2世」(在位紀元前1218~1200年)の偉業を讃える文書が刻まれているようです。

ヒッタイト帝国は、海の民(謎の民族)によって滅ぼされたとされますが、詳細は分かっていません。

大城塞には激しく燃えた壁がガラス状に溶け、滅亡を伝えているようです。

次回は、南東の城門「王の門」です。

油絵「チューリップ」

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妻の油絵「チューリップ」です。

赤いチューリップ、白い水仙、黄色いバラのカラフルな組み合わせは、どこからともなく楽しそうな音楽が聞こえてくるような気持ちになります。

とは言え、どこか寒い感じが漂っているのは、グレーの背景色や、ガラスの花瓶、メタリックな額縁によるものでしょうか。

特にグレーの背景色は、花の美しさを引き立て、額縁のシルバーにもよく映えており、改めて背景色の影響力の大きさを感じます。

寒い中で、元気に咲く花を見ると、なぜか暖かい気持ちになります。

これも背景色的効果でしょうか。

トルコ旅行 14 ヒッタイト帝国の都ハットゥシャ-6

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トルコ旅行3日目(10/1 )、ヒッタイト帝国の都「ハットゥシャ(トルコ語でハットゥシャシュ)遺跡」の南端「スフィンクスの門」を終え、最後の「王の門」の見学です。



「ハットゥシャ」の概略地図です。

現地の案内板や、複数の観光案内の地図を参考に自作したもので、かつて城壁に囲まれていたと思われるエリアをピンク色に塗っています。

遺跡の見学道路を北の大神殿から南の「スフィンクスの門」まで進み、最後は「王の門」の見学です。

見学を終えた後、遺跡の北にあるレストランに行きましたが、地図の上部にある青い矢印のすぐ上がその場所です。



写真上段は、城内に向いて作られた「王の門」の風景で、左側の白い石柱にレリーフが見られます。

写真下段は、城壁の外側から見た門の風景で、左右の石の形から、かつてスケールの大きいアーチ型の門があったことがうかがわれます。

「王の門」のレリーフは、発掘された当初、王の像と考えられ、門の名称としたようですが、その後の研究で、神の像と考えられるようになっています。

「ライオンの門」や、「スフィンクスの門」など左右に像がある門とは違い、片方だけに神の像が作られたことに興味を魅かれます。

約3500年前の遺跡の中に真新しい白のレリーフは、明らかにレプリカと分かりますが、実物は、アンカラのアナトリア文明博物館にあるそうです。



「王の門」のそばの案内板にあった門の再現イメージ図です。

門の両側の城壁を突き出すことにより、門の前を狭くして押し寄せる敵の人数を制限し、城壁の上からの反撃も考えられていたようです。

一見、中世ヨーロッパの城門にも思えますが、既に3500年前頃、このような城門が造られていたとは驚きです。



トルコ人ガイドさんが「王の門」のレリーフを説明している風景です。

指さされた腰の下辺りの説明内容は、すっかり忘れてしまいましたが、克明に刻まれた神の像にヒッタイト時代が垣間見えるようです。

門に押し寄せる敵を迎え撃つ味方の兵士達を鼓舞する姿のようにも見え、いかめしい顔を門の外に向ける守護神の雰囲気とは違うものです。

体は、正面に向き、顔や、手足は、横を向く姿は、ヒッタイト帝国の聖地「ヤズルカヤ」でも見られ、ヒッタイト帝国時代のレリーフの特徴のようです。

同様の形式は、メソポタミヤ文明や、古代エジプトの彫像の一部にも見られますが、この形式が好んで使われたのは写実を離れ、描きたい面を組み合わせるピカソ的発想だったのでしょうか。



神の像とされるレリーフを拡大した写真です。

トルコ人ガイドさんが指さした腰の下には剣と思われる長い棒状のものが見え、右手に持つ斧もタツノオトシゴの顔にも似た珍しいものです。

先が尖った帽子の後ろに垂れ下がったものが付いますが、耳の下まで覆う形から兜にも見えてきます。

資料を探していたら面白い記述がありました。

■「古代オリエント文明」(ピエール・アミエ著、鵜飼温子訳、白水社発行)より
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~城門のひとつ《王の門》は、力強い写実的肉付きの守護神の像で飾られている。この髯(ヒゲ:頬のひげ)のない人物は、うしろに飾りの帯の垂れた角のついた冠を被り、そしてパレスティナやイラン出土の武器と類似の、刃の反対側が掌の形に分岐した斧を手にしている。帯に結びつけられた曲がった短刀と腰巻は、ラス・シャムラのバール神のものをしのばせる。
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「王の門」と、その付近にあった建物の再現イメージ図(上段)と、平面図(下段)です。

何故かこの図は、「王の門」付近ではなく、「スフィンクスの門」の地下道の入口付近の案内板にあったもので、その場所がこの図で紹介された「王の門」付近一帯が見晴らせる場所だったことによるものでしょうか。

再現イメージ図(上段)を見ると、場外から「王の門」を入り、左手に続く塀に沿って進むと大きな建物の入口があったようです。

中庭がある大きな建物や、その横にある小さな建物は、城門に近いことから旅人の宿泊施設で、小さな建物には馬や、ロバ、ラクダなどを休ませる施設だったのかも知れません。

下に掲載した遺跡南東部の地図で見ると、平面図(下段)は、「王の門」付近と一致していますが、再現イメージ図(上段)は、南北が逆さまに描かれています。



「ハットゥシャ遺跡」の南東部の地図です。

ヒッタイト帝国の都には各地方からの往来があったと考えられ、南東方面に向いた「王の門」にはカッパドキアや、その先の地中海東岸、エジプトとの交流の門だったことが考えられます。

前述の資料に「王の門」に刻まれた守護神の像の短刀や、腰巻が「ラス・シャムラのバール神のものをしのばせる」とあり、「ラス・シャムラ」を調べて見ました。

Wikipediaによると、「ラス・シャムラ」は、地中海東岸にあるシリアの港湾都市「ラタキア」から北に約8Kmの海岸近くの町で、紀元前1450年頃から紀元前1200年頃に栄えた古代都市国家「ウガリット」があった場所だそうです。

「ウガリット」の北にはヒッタイト帝国、南東にはメソポタミア、南西には古代エジプトと、それらを結ぶ三角形の中央に位置し、地中海との交流もあったとされます。

Wikipediaによると、「バール神」は、ウガリット神話に「バアル」の名で登場する神で、「右手に矛、左手に稲妻を握る戦士の姿」、「自然界の水を征する利水・治水の神」、「慈雨によって実りをもたらし、命を養う糧を与える神」などの特徴が紹介されています。

ヒッタイト帝国の聖地「ヤズルカヤ」の大ギャラリー奥の岩に刻まれたレリーフで見た主神「テシュプ」も天候神・雷神とされ、よく似ています。

やはり、半砂漠地帯の気候の中で生きる人々の祈りは、雨の恵みだったものと思われます。

又、「ウガリット」の神話がユダヤ教の聖書へとつながるカナン神話の原型とされていることを知り、驚きました。



写真上段は、「スフィンクスの門」の下の道から「王の門」付近を見た風景で、写真下段は、右手の風景を拡大したものです。

写真右手の道路脇にあるのが「王の門」でしようか。

門から細長く続く石の列が塀の跡のようで、写真右端の建物跡が案内板にあった再現イメージ図の建物と思われます。



ハットゥシャ遺跡の見学を終え、ツアーのバスで、昼食に立ち寄ったレストランの風景です。

冒頭の地図の上にある青い矢印の先にあり、ハットゥシャ遺跡の全体が見渡せました。

写真下段にレストランの入口があり、入口の左手に等高線が描かれたハットゥシャ遺跡の地図が掲示され、その写真をブログで、利用させて頂きました。



レストランの庭にブドウの棚があり、たくさんの房が実っていました

かつて見たことのない小粒のブドウで、未熟とも思える緑色の実に白い粉が付いた珍しいものでした。

写真右下は、ブドウの房のそばにこぶしを並べて撮ったものです。

野生のブドウかと思い、トルコ人ガイトさんに尋ねると、ワインを作る品種だそうです。

こんな小さなブドウで、本当にワインを作るのでしょうか。



写真上段は、レストランから南に見えたハットゥシャ遺跡の風景です。

遺跡は、正面の山すその「大神殿」から左の山頂の「スフィンクの門」まで続いています。

山頂から少し右に見える大きな岩山の上が「大城塞」があると思われますが、こここからは見えないようです。

アナトリアの古い集落は、守りを考え、山裾から見えない山の中腹に作られる例が多く、ハットゥシャの最初の集落も「大城塞」から始まったものと思われます。

写真中段は、大神殿付近の風景です。

右手に再現された城壁(左下隅に拡大写真)、左手の道路わきの木立付近が大神殿の駐車場で、その間に神殿などの建物跡が広がっています。

写真下段は、「スフィンクの門」がある山頂付近の風景で、駐車した車も見えます。



レストランの東に見えたヤズルカヤ遺跡付近の風景です。

山の中腹に三角形の岩山が並ぶ(写真の中央)辺りが「ヤズルカヤ遺跡」で、土産物店の黄色い建物も見えていました。

エジプトのラムセス3世(在位前1182~1151)の葬祭殿の記録によると、紀元前1180年、ヒッタイト帝国は、「海の民」によって滅ぼされたとされます。

ヒッタイト帝国末期、聖地ヤズルカヤで、天候神「テシュプ」へ祈る最後の王を想うと、厳しい干ばつが続く時代だったのかも知れません。

次回は、いよいよカッパドキアです。

トルコ旅行 15 バスから見たエルジェス山の風景

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トルコ旅行3日目(10/1 )、ヒッタイト帝国の都「ハットゥシャ(トルコ語でハットゥシャシュ)遺跡」の門」を終え、カッパドキアの「ギョレメ野外博物館」までバスで約3時間の移動です。



カッパドキアまでの中間地点を過ぎてしばらくすると、左手に、雪をかぶった美しい「エルジェス山」が見えてきました。

地平線の向こうに浮かぶようにそびえる山の美しさに魅かれ、バスの車窓から「エルジェス山」の風景を撮り続けました。

この辺りは畑でしょうか、右手にダンプカーが見え、左手の建物は、穀物の保管、出荷のための施設と思われる黄色いタンクが見られることから農業施設だったのでしょうか。

広大なアナトリア高原の不思議な風景でした。



トルコ共和国の地図です。

トルコ共和国は、ピンク色のエリアで、県境を破線で表示しています。

旅行3日目は、トルコ共和国の首都「アンカラ」を出発、「ハットゥシャ遺跡」を見学してカッパドキアの「ギョレメ野外博物館」へ向かって行きます。



小高い丘の向こうに「エルジェス山」がそびえています。

半砂漠のアナトリア高原の所々で、木が見られるものの、湖川や、低地でない限り緑の少ない荒涼とした風景が続きます。



青や、黄色のビニールシートが掛けられた場所は、収穫物などが保管されているのでしょうか。

後継者の少なくなった日本の農業を考えると、標高1000mを超えるアナトリア高原の厳しい自然の中でも農業が続けられるトルコが頼もしく見えてきます。



所々に集落が見られました。

電信柱が立ち並ぶゴチャゴチャした風景を前にしても「エルジェス山」の気高い美しさは変わりません。



美しい湖が見えてきて「エルジェス山」の風景では一番気に入った写真です。

さすがに湖のそばには、木々が茂っています。



岩山の向こうにそびえる「エルジェス山」の雄大な風景です。

だいぶカッパドキアに近づいて、低地の向こうの山にカッパドキアの岩山の特徴が見られるようになってきました。



カッパドキアの「ギョレメ野外博物館」に近づいてきた辺りの風景です。

カッパドキア独特の岩山が見えてきました。

この独特の地形は、六千万年前、「エルジェス山」(標高3917m)や、西の「ハッサン山」(標高3268m)の噴火により岩石地帯が形成され、その後の風雪、雨水による浸食で出来たとされます。

この辺りまで来ると「エルジェス山」は見えなくなりましたが、ここまでの道中、素晴らしい雪山の風景を堪能することが出来ました。



油絵「西洋人形」

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妻の油絵「西洋人形」です。

この絵を見ていると、子供の頃、赤いフリルの帽子をかぶった布の人形が女の子の遊び相手になっていたのを思い出しました。

「西洋人形」と言えば、19世紀のフランスや、ドイツで作られた美しさの極地とも言える「ビスク・ドール」が浮かびますが、この人形は、庶民的なものです。

石器時代の石偶や、土偶に始まり、木彫りや、布など様々な素材、技術の変遷を経て現代に続いてきた人形ですが、人形に親しみを感じ、心を通わす疑似体験は、心を和ませ、人を成長させてくれていたものと思われます。

素敵な「ビスク・ドール」や、高級な「雛人形」は、今でも庶民には高嶺の花ですが、展示館や、本などで見るだけならお安いことです。

ひな祭りまでもうすぐ。雛人形の展示会に出かけ、人形と心を通わせてみたくなりました。
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